バツイチブロガーvs根暗腐女子?清少納言と紫式部の意外な関係



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清少納言と紫式部と言えば、平安時代にその才を謳われた女流文人として有名ですね。『枕草子』や『源氏物語』の名は、誰もが知るところです。

現代に生きていれば有名女性ブロガーになったかもしれない清少納言と、腐女子のようなストーリーを書いた紫式部。

この二人が犬猿の仲であった、あるいはライバル関係だったという話は有名ですが、果たしてその実態はどうだったのでしょうか?




●実は共に生没年不明

その関係を考えるにあたってまず知っておくべきことは、二人ともその生涯を通して記録する、明確な資料は残されていないということしょう。

清少納言と紫式部は、共に受領階級(当時の地方長官級の貴族)の家の出身ですが、この時代の貴族社会は男性優位であり、女性についての記録は基本的に残されていないのが普通です。

しかし、貴族階級であることもあって、二人は共に高度な教育を受けたインテリでもありました。現代にもその名前や生涯についての情報が残されているのは、彼女たちが高い教養を身につけ、日本の文学史にその名を残す作品を記したからこそと言えるかもしれません。


●清少納言は日本初の女性ブロガー?

清少納言は著名な歌人として知られる清原元輔の娘として生まれました。『清少納言』という名前は、後に皇后の女房(皇后など高貴な身分の人の側に仕える役目の女性)となった時の女房名で、本名は伝えられていません。

一度は結婚して息子を生んでいますがその後離婚、当時の一条天皇の皇后であった藤原定子の女房として宮廷に仕えるようになります。博識で社交的でもあった彼女は当時の著名な文人たちとの交流を持ち、その名を知られました。

清少納言の名を後世に残した『枕草子』は、彼女が宮廷に仕える中で興味を抱いた身の回りの様々な出来事や人物などについて書かれた作品として、日本初の随筆(エッセー)として知られています。今で言うなら、さながら女性有名ブロガー、と言ったところでしょうか。




●紫式部はオリジナル同人誌の元祖?

紫式部は国司(地方長官)を歴任した藤原為時の娘として生まれました。清少納言と同じく、紫式部という名前は後に宮中に仕えた際に与えられた女房名であり、本名は不明です。宮中に仕えた当初は「藤式部(とうのしきぶ)」と呼ばれていました。

中国の歴史書である『史記』を暗記するなど、幼い頃から文才に恵まれた少女でしたが、彼女は目立つことを嫌う内向的な性格で、自分の才能をひけらかすことを嫌ったと言われています。

紫式部が『源氏物語』を書き始めたのは、亭主であった藤原宣孝の死後であったと言われています。当初は表立って発表するつもりのない、いわば個人的な同人誌のようなものとして書かれていましたが、やがてその噂は藤原道長の耳にも届き、後に藤原定子に変わって皇后となった藤原彰子の女房として宮中に仕えることとなります。

日本初の小説として知られる『源氏物語』ですが、主人公の男色を描いた部分があることから、日本初の腐女子と呼ばれることもあります。


●『紫式部日記』に残された清少納言の悪口……その真意は?

清少納言と紫式部の不仲説の根拠となっているのは、紫式部が藤原彰子の女房として宮中に仕えた時期に書かれた『紫式部日記』の記述に依るものです。彼女は清少納言を『女のクセに漢字を使う才気ぶった嫌な女』といった痛烈な批判をそこに書き残しています。

この時代、漢字は男性の使うものであり、女性はひらがなを読み書きするものだとされていました。紫式部は自分が漢字の読み書きができることを人に知られることを嫌い、読めないふりをしたという逸話が残されています。

清少納言は、自分の才気を隠そうともせず、堂々と漢字の読み書きをしていました。紫式部が、もともと自分とは性格的に正反対に位置する清少納言を毛嫌いしたのは無理からぬことなのかも知れません。

しかし、実はこの二人にはまったく面識がありませんでした。清少納言が女房の職を辞して宮廷を去ってから、紫式部が宮中に仕えるようになるまで10年もの開きがあることが知られています。また、清少納言が紫式部に関して発言した記録は残されておらず、『紫式部日記』の記述は一方的な言い分に過ぎないとされています。

紫式部が清少納言を嫌ったのは、清少納言が彼女の夫であった藤原宣孝を批判していたことが原因だと考えられています。また、その背景には当時の宮中の政治的背景(元々皇后であった藤原定子を排し、自分の娘である藤原彰子を皇后とした、藤原道長の思惑)が働いたとも考えられています。




■おわりに

女性ブロガーvs同人作家。

そう考えると、歴史上の人物であるはずの二人の女性がなんとなく身近な存在に思えてくるから不思議ですよね。

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